憎しみの種を植え付けない、育てない

先日、第93回アカデミー賞授賞式を観ました。

WOWOWに加入している友人が毎年録画してくれるアカデミー賞授賞式は、年に一度の楽しみ。今年は変則的な日程ですっかり録画をお願いし忘れていたのですが、なんと録画しておいてくれたのです。(ありがとう!)

いつもはスクリーンの中で躍動する俳優たちが、ステージではまた違った顔を見せてくれるのも嬉しいのだけど、特にここ数年は受賞者たちのスピーチに心を動かされています。

アカデミー賞では、作品や主演や監督などの華やかな賞ばかりにスポットが当てられがちですが、今回特に胸を打たれ、考えさせられたのは、俳優でもあり慈善活動家としてたくさんの人々を助けてきたタイラー・ペリーが、ジーン・ハーショルト友愛賞を授賞した際の力強いスピーチでした。

彼は母親に「憎しみ」と「大局判断(blanket judgement)」を拒むことを教えられたと言います。大局判断というのはあまり馴染みのない言葉でしたが、つまり「黒人は~」とか「アジア人は~」とか、物事を一括りにして決めつけるようなこと、とか物事を一つの側面から判断すること、のことだと思います。もちろん、人種だけではなくてある特定の職業とか性別にも当てはまります。

そして彼はこう続けます。

“It’s my hope that we teach our kids, refuse hate. Don’t hate anybody.”(「子供たちに『憎しみを拒み、誰も憎んではいけない』ということを私たちが教えていくことを望んでいます。」)

その言葉を聞いたとき、今から十数年前のある出来事を思い出しました。

当時ニュージーランドのオークランドという街に暮らしていたときのことです。ニュージーランドで仕事を見つけ、定住するつもりで暮らし始めたばかりのある日、仕事を終えてバス停から歩いて帰る途中に、ぼくは住宅街の中の小さな公園を歩いていました。

公園では小学校に上がる前くらいの、白人の小さな女の子たちが何人か遊んでいたのですが、その中の一人がぼくの前に立ちはだかり、突然大声でぼくを指差しながら叫び始めました。

“Go home!!”

何度も何度も同じ言葉を叫ぶ彼女の顔が、幼い子供とは思えない程に歪んでいたように記憶しているのは、ショックと被害者意識による記憶の捏造かもしれませんが、突然の出来事にただただ驚いて、すぐに目を逸らして早足で公園を通り抜けました。

家についた途端、驚きと悲しみと怒りがごちゃ混ぜになって、胸が内側から突き破られるんじゃないかと思うくらい、心臓が激しく鼓動していた感触だけは、はっきりと覚えています。

彼女が自分の頭で考えた上で、アジア人は自分の国へ帰るべきだと判断したわけがありません。現代においては、メディアでも差別を煽るような表現をあからさまに行うことは許されないから、これはほぼ確実に彼女の親や周りにいる大人、もしくはそういう大人の言動をそのまま鵜呑みにした同年代の子供たちの影響なのだと思います。

彼女に影響を与えた大人たちも、きっと「アジア人は憎んでいい」なんて教えていたわけではなくて、何気ない会話の中で「ろくに英語も話せないアジア人は自分の国に帰ればいいのに」とか「最近街中はアジア人ばかりで変な感じだなあ」といった感じで、アジア人を一括りにして個人的な感想や印象を話していただけかもしれない。

でもその真意を子供が汲み取れるでしょうか。

彼女がアジア人を心底憎んでいたのかというと、そんなことは絶対にないと思う。ただ憎しみの「種」のようなものは、確実に植え付けられていたはず。

「人を憎むのはやめよう」

その言葉を聞けば、殆どの人は「そりゃそうだ。憎むのは良くない」と思うのだと思います。でも不特定の誰かに対する憎しみとか差別という強い感情は突然現れるものではなくて、もっと遠回しで一見大したことのない軽はずみな感情から始まっていたり、自分にとって影響力のある誰かの言葉から発展していったりしているんじゃないか。

そして子供たちにとって影響力のある誰かというのは、間違いなく両親や周囲にいる大人たちです(YouTubeやSNSの方が影響力がある、という意見もありますが、そこで発言する大人も含めて)。

だから、ぼくたち大人は、ものすごく大きな責任を負っているのだと思います。

日本国内で生きている限り、ほぼ単一の民族だけで差別とは縁のない毎日を送っていると思ってしまいがちだけど、「中国人は~」とか「韓国人は~」なんていう言葉を何気なく使っていないでしょうか。そしてそれを周りにいる子供たちは聞いているということを自覚しているでしょうか。

ぼくには中国人の友達もいるし、今は韓国人の同僚と仕事もしています。彼らは別の国で生まれ育ってきたというだけ。もちろん考え方も価値観も違うけど、それは生まれた国の問題ではなくて、ただの個性だと思います。

いやいや個性じゃなくて、全体的にそういう傾向はあるでしょ。とか、モラルや常識は生まれ育った国によって違うし、文化的なバックグラウンドも異なるから「中国人は~」というような表現になってしまうのは仕方ない、という人もいるかもしれないけど、それこそ大局判断なのだと思います。

発言している本人の意図としては差別の意味合いは全くない場合もあると思うし、むしろポジティブな意味で使う場面というのもあるのかもしれない。

あからさまな差別発言はもってのほかだけど、ネガティブな意味で特定のグループの人たちを一括りにするようなことを、軽はずみに口にしないようにしたい。そしてそれを子供に聞かせるようなことは絶対にしたくないし、しないでほしい。

その軽はずみな大局判断の積み重ねが、子供たちの頭の中に憎しみの種を植え付けることになるかもしれないということを、ぼくたち大人はしっかりと自覚していかなければならないのだと思います。

SNSをはじめとする、匿名性の高いネット上の情報は、時に差別や憎しみの感情を盛んに煽りますが、少し想像力を働かせることができるのなら、そんな情報がいかに一方的なものか誰にでもわかります。

差別や憎しみを生むのは、想像力の欠如だと思っています。特定のグループを一括りにして決めつけたりせず、相手の気持ちを想像したり、自分が逆の立場だったらどうだろうと考える。そして植え付けられているかもしれない憎しみの種がそれ以上育つことなく、やがて消えていったらいい。

人を憎んではいけない、ということを子供たちに教えること。それはもちろん大切なこと。でももっと大切なのはぼくたち大人がどう考え、どう振る舞うかということ。自分たちが身をもって子供たちに示すこと。

そしてぼくたち大人が、想像することを忘れないこと。いくら子供に「思いやりを持ちなさい、人の気持ちを想像しなさい」って教えても、自分自身が普段から「自分たちさえ良ければいい」というような振る舞いをしていたら意味がないんです。

何だかアカデミー賞から飛躍してしまいましたが、、、

とにかく!相手が誰であろうと、思いやって、想像して、向かい合っているその瞬間を大切に。

なかなか難しいこともあるんだけど、自分はそうありたいといつも思っているし、そんな世の中になって欲しいと心から願っています。